グティ時代
グティ時代
B.C.22??年〜B.C.2112(?)年
東方から、シュメール・アッカド地方に侵入してきた異民族グティ人が、支配的になっていた、とされた時代。『シュメール王朝表?』では、ウルク第4王朝の後、グティウム(グティ人王朝)が21代、91年君臨したかに記しているテキストが知られている。
しかし、グティの支配がどのようなものだったかは、定かではない。少なくとも、古代の歴史伝承が伝えるように、独自の王朝を建て、諸都市を支配した、といったことはなかったようだ。
なお、グティ時代の開幕時期についても、現状、とりあえず「紀元前23世紀末」としか言いようがない。研究者の間では、現在、「グティ時代」を「アッカド王朝時代」末期からの「混乱期」に含めて、整理すべき、との試みもなされている。
アッカド王朝時代末期の混乱がきっかけとなり、シュメール?南部の都市、ウルク?とラガシュ?とに、それぞれ独立政権が自立した。ウルクは周辺都市を支配下に治め、ラガシュは有名な王グデア?がB.C.2175年頃(?)に即位した前後から、繁栄を謳歌したと目される。シュメール・アッカド地方の外縁部でも、この頃、エラムが政治的統合を果たしたと思われる。
古代の歴史伝承では、アッカド王朝?はサルゴン大王?から11代(181年)続いた後、グティ人に打ち倒されたとされている。おそらく、グティの侵入と、アッカド王朝、及び都市アガデ?の滅亡とは、なんらかの関連があるのだろう。しかし、アガデ市の遺跡が未確定なこともあり、滅亡経緯や、侵出との因果関係は解明されていない。
ウル第3王朝時代?に成立したと思われる、宗教文書『アガデの呪い』には、アッカド王朝?のナラム・シン?が、ニップルのエンリル神殿を劫掠、エンリル神の訴えを入れたマルドゥック神が、呪い(神罰)としてグティ人を差し向けた、とある。この物語は、ウルク第5王朝のウトゥヘガル?が、「グティ人の支配からシュメール・アッカド地方を解放した」と宣言して覇権を確立しようとしたことと関連付けて理解すべきだろう。
ちなみにウトゥヘガルの武将だったウルナンムが、ウル?に都してウル第3王朝を開くことになる。
グティ人は、シュメール地方の北東方の山岳地帯から、概ね南西方向に侵出して来たようだ、と推測されている。現在の地名で言うと、イラク領のスライマニア県から、イラン領のバーフタラーン県(ケルマンシャー)にかけてのザクロス山中から、ディヤラ川の南方を侵出して来たようだ。バグダードの南をかすめるように古代都市キシュ?の方面へと進んだらしい。
グティ人の侵出時期も、現状では未確定。短期集中的な侵攻ではなく、時間をかけた緩慢な侵出だった可能性もある。なお、ザクロス山脈南域で活発化していたエラム人勢力の活動と、グティ人南下との関連も未解明。
実は、アッカド王朝時代末の混乱期からグティ時代にかけて、アガデ、ウルク、ウルといった主要都市の間でも、それぞれの記録の相対年代を特定することが困難になっている。
この頃、シュメール・アッカド文明?の諸都市では、公的記録に、重要事件を使った形式の年名が使用いられていた。例えば「ディルムンからの交易舟団が来なかった年」といった具合だ。アッカド王朝の統治力が堅調だった間は、ニップル市で用いられた年名が、スタンダードとして都市で共有されたのだが、混乱期に入ってから、そうした制度も失われた。この時代について、諸都市の歴史の相対年代を、相互参照して特定していく作業は不可能に近い、とすら言う研究者もいる。
そういうわけで、現状、研究者たちの大勢に、確からしいことと認められているグティ時代の歴史は、次のようなものに留まっている。
アッカド王朝の支配力が弱まると、まず、ウルク市が独立。ウルク第4王朝は、ウルなど南方の諸都市に支配を及ぼしていった。
やや遅れて、ラガシュは、独自のペルシア湾交易で繁栄を謳歌するようになる。ただし、グデア王の治世は、ウルクがアッカド王朝から独立した後に続いてのこと、とする説が主流意見だが、100年近く下って、ウルクにウトゥヘガルが出る直前、とする説もある。
ウルクの独立、ラガシュの繁栄と前後するように、エラムでは、プズル・インシュシナクが、エラム人の主神インシュシナクから「四方世界を与えられた」と宣言。イラン高原西南部をエラムの勢力圏として治めていく。エラム勢力の統合が進むに連れ、彼らの影響力は、ディヤラ川沿いに伸び、シュメール・アッカド地方との関わりも増えていく。
こうした有力勢力の動きと、グティ人との活動との関連については、諸説ある。現状の統一見解らしきものは「グティ人が独自王朝をたてて、諸都市を支配した、という事実はなかったようだ」程度に留まっているようだ。
関連用語
- 用語
- 解説
Keyword(s):
References:[小辞典] [シュメール・アッカド時代]