久野重勝 くのしげかつ
久野重勝 Kuno Shigekatsu
- 生年:1545年
- 没年:1592年
- 在位:黒田家第三代家老
- 父:重誠(シゲカネ)
- 母:
戦国時代の武将で、黒田官兵衛の家臣・第三代家老。 黒田二十四旗の一人。 久野 四朗兵衛/四兵衛 [くの しろうべい/しへい] とも呼ばれた。
播磨国加東郡の出身で、黒田孝高に小姓から仕えて家老職にまで登り、「九州征伐」では筑前国高祖城で一番駆けの戦功を挙げた。 その後は博多の復興に従事して町割りの基礎を作り、「文禄の役」の際は肥前名護屋城の陣屋割りも担ったが、平壌攻略の際に戦死した。
播磨国加東市東条・小野市を治めていた久野村金釣瓶城の代々城主の家柄であったが、黒田孝高に小姓から仕えて家老職にまで登り、九州征伐では筑前国高祖城で一番駆けの戦功を挙げたことで知られる。 その後は、黒田家三代目家老となり、名を四兵衛とし、博多の復興に従事して町割りの基礎を作り、文禄の役の際は肥前名護屋城の陣屋割りも担ったが、平壌攻略の際に物見に出た際に受けた傷が元になり朝鮮半島で没した。
戦乱で荒廃した博多の復興を命じられ、桶を駕籠代わりに毎日通い、二十日間で町割りの基礎を作ったという土地区画整理の名人。 朝鮮の役の準備として重勝が肥前国名護屋城の縄張りを命じられた時も、城下の陣屋割を小銭を使ってささっと決めてしまった。
1600年に豊後で行われた黒田如水と大友義統の「石垣原の合戦」である。 黒田勢の先鋒を任された将の中に久野四兵衛重勝には次左衛門という19歳の一人息子がいた。 兵力で劣り支援勢力もない大友勢にとってこの「石垣」は絶対に確保しなければならず、大友勢の先鋒吉弘統幸と宗像鎮続は決死の突撃を敢行した。 黒田勢も先鋒の久野次左衛門、曾我部五右衛門らが「石垣」を奪取するために大友勢と激戦を展開し、宗像掃部と戦って討死した。 戦後久野家は重勝の弟重時が家督を継ぎ、筑前入国後六千石を領して明治まで中老として続いた。
播磨の久野(くの)氏の出自は、遠江国久野氏本家か伊勢田丸城主久野家から上洛〜丹波を経由して播磨国加東に来着した一族の末裔であると考えられる。 先祖には現在の小野市昭和町にあたるの金釣瓶(かなつるべ)[= 金鑵(かなつるべ)=桔槹(はねつるべ)]城主であった久野式部がいた。 式部の孫に圓賀がいたが、戦国の世にその領地を守る事が困難になった。 そこで1569年 (永禄十二年)、重勝の父重誠(シゲカネ)は黒田職隆に、重勝は黒田孝高(官兵衛)の小姓として、親子で黒田家に仕える事になった。 その後父重誠が別所氏との戦で負傷したため後を継いで家老職に任じられた。
天正15年九州陣のとき、小早川隆景が筑前国怡土(いど)郡原田氏が篭った高祖城を攻めた際に、黒田官兵衛の子孝高より目付として四兵衛重勝が月毛の馬にまたがり大手門まで一番駆けをした。 この勇気に驚いた高祖城主原田信種は降伏を決意したとされ、重勝はこの功績により秀吉から感謝状をもらっている。
四兵衛重勝にはこのような武功のほかに、土地区画にも優れた才能を見せている。如水の豊前入国後六千石を賜った重勝は、戦乱で荒廃していた博多の町の復興を命じられる。 そこで重勝は約二十日間をかけて町割の基礎を作り、見事に博多の町を復興させた。 この時町に戻ってくる人々が、半切桶を駕籠の代わりにしているのを見て面白がったという。 如水が朝鮮の役の際に那護野城の縄張りを命じられたときも、下人に持たせていた小銭を使って、即座に諸将の陣屋割指図を作ってみせたという。
四兵衛重勝も実際に文禄の役で朝鮮に渡る。 小西行長に平壤(ピョンヤン)の救援を求められ、物見(斥候=偵察)に出たところで敵と遭遇。 難なく討ち取って帰陣したが、翌日謎の死を遂げた。 敵の刀に毒が塗ってあったものと見られている。
弟の二右衛門重時は家を嗣ぎ玄蕃と號し、又改めて外記と称し後剃髪して卜真ともいった。 よく長刀を使い武技に長じていた。 筑前風土記には、久野外記入道、更には後に文政年間に久野作右衛門ありと記されている。
久野家は御着城主小寺家に仕えた黒田官兵衛に従い御着城に住み、後筑前にも移り住んだことから、当然その系累が先祖と考えられる。
重勝が小寺[黒田]に仕えた播州姫路市御着城[現:御国野小学校]周辺には久野姓が多く現存し、これらは全てクノと発音される。 福岡県中西部[筑後]に、現在は久野をヒサノと読む姓が多いが、縁起を担いだためか「クノ」を「ヒサノ」と読み違えたまま定着したとも考えられる。 黒田如水とともに豊前を治め所領を移した北九州〜中津にはクノと読む久野姓がかなりいる。
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