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来敏

来敏 Lai Min

  • 生年:?
  • 没年:?
  • 父:
  • 母:

三国時代の学者。字は敬達。

義陽郡新野の出身で、前漢の来歙?の末裔で、後漢末に司空を務めた来エン?の子。

後漢末の大乱で姉と共に荊州に逃れ、その後は縁戚関係にあった益州の劉璋を頼った。

劉備が益州を制圧した後は劉備に仕えて典学校尉となり、219年に漢中王となった際は太子家令となった。

劉禅が即位した後は虎賁中郎将となり、227年に諸葛亮が北伐の為に漢中に進出した際に同行して軍祭酒・輔軍将軍に任じられ、諸葛亮の死後は大長秋・光禄大夫・執慎将軍を歴任し、景耀年間に97歳で没した。

メモ

  • 『左氏春秋』を善くし、『三倉』『広雅』の訓詁学に詳しく、文字の校訂を好んだ。
  • 言葉に節度が無くうるさ型の性格であった為、諸葛亮を初めとした他の蜀臣からは快く思われず、たびたび免官していたが、荊楚の名族である事もあって何度も復帰した。

経歴

人間関係

来忠?
子。
孟光
『公羊春秋』を奉ずる孟光とは度々論争を繰り広げた。
董允
来敏の後任として虎賁中郎将となったが、若手であった董允が自身の後任であった事で自身の栄誉が汚されたと感じて反発した。
諸葛亮
来敏の節度の無い言動に相当苦慮していた。
劉備
主君。しかし、劉巴が太子家令に来敏を推薦した事をあまり快く思わなかった。
費イ
度々囲碁をする仲であった。

名台詞

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Last modified:2011/03/17 21:21:17
Keyword(s):
References:[費イ] [諸葛亮] [孟光] [人物リスト(中国古代史)]