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袁紹

袁紹 Yuan Shao

  • 生年:?
  • 没年:202年
  • 在位:
  • 官職:
  • 父:袁成あるいはその弟である袁逢
  • 母:

後漢末の群雄。字は本初。

代々三公等の重職を歴任した後漢朝の名門出身で、当初は後漢朝に仕えて大将軍何進?の側近を務め、何進が十常侍に殺害された際には軍を率いて宮中に押し入り、十常侍を討伐した。

その後は後漢朝の実権を握った董卓と対立して冀州へ逃れ、反董卓連合軍が結成された際には総大将を務めた。

連合軍の解散後は公孫サンを滅ぼす等、河北に勢力を拡大したが、200年の官渡の戦い?にて曹操軍に敗れ、失意のまま202年に没し、自身の築いた勢力も死後の後継者争いで瓦解した。

メモ

  • 四世三公を輩出した袁家の出身として多くの名士と交わり、その名声は名高く後漢末の群雄割拠においては河北の雄として強大な勢力を築いたが、一方で猜疑心が深く優柔不断な面もあり最後は曹操に敗れた上に後継者を明確にせず死去した事で瞬く間に袁家の勢力は後継者争いで瓦解してしまった。
  • 袁術の実父である袁逢の庶長子で伯父の袁成の養子に入った説と袁成の実子という説がある。

経歴

人間関係

血縁関係

袁譚
長男。
袁煕
二男。
袁尚
三男。
袁術
異母弟(従兄弟説もある)。連合軍の解散後に対立した。
高幹
甥。
袁瑰?
叔父。

後漢朝

何進?
何進が権力を握っていた時代に重用されて宦官の誅滅に協力した。
董卓
董卓が朝廷の権力を握った際に激しく対立して袁紹は洛陽から逃亡し、後に董卓から渤海太守に任じられたが袁紹自身は程なくして反董卓連合に加わって総大将となった。
趙忠?
次第に名声を博しつつあった袁紹を警戒した。

群雄

曹操
若い頃からの友人であり、一時期自身の傘下に入っていたが、後に対立して中原の覇権を争い敗れる事になった。
劉虞
董卓の立てた献帝に対して劉虞を新皇帝に擁立しようとした。
公孫サン
河北の覇権を巡って激しく争った。
韓馥
当初は同盟関係にあったが、脅迫して冀州を譲り受けた。
呂布
一時期配下となったが、次第に傲慢になった呂布を警戒して殺害を図った。
張バク
若い頃は「奔走の友」と呼ばれる程の親友であったが、張バクと良好な関係であった呂布の殺害を図った事で次第に仲が悪くなった。
劉表
袁術後には曹操に対抗する為の同盟関係にあった。
劉備
比較的友好的な関係にあり、後に曹操に追われた劉備を迎え入れた。

配下

逢紀
古くからの友人で、参謀として袁紹軍に属した。
郭図
参謀の一人で、曹操軍との戦いでは郭図の唱える短期決戦案を支持した。
審配
元韓馥配下。曹操軍との戦いでは郭図・審配の唱える短期決戦案を支持した。
田豊
元韓馥配下で、部下となった後は参謀として袁紹の勢力拡大に貢献したが、曹操軍との戦いで意見が異なった事で次第に疎んじるようになり、投獄した末に殺害した。
沮授
元韓馥配下で、田豊と同じく参謀として重用して軍事面でも重きを成した人物であったが、次第に献策を受け入れなくなった。
許攸
若い頃には「奔走の友」の契りを結んだ友人で袁紹の参謀として活動したが、曹操軍との戦いで献策を袁紹が悉く採用しなかった事に不満を持って曹操に寝返った。
淳于瓊
西園八校尉時代の同僚で、後に配下となった。

名台詞

セリフ
説明

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